杉村楚人冠が一家をあげて我孫子に引越しをしてから、今年で100周年を迎えます。

 今回の展示では、楚人冠が我孫子に出会って移住をするに至った経緯や、我孫子での暮らしの様子を、彼の愛用品や随筆をもとにご紹介します。

①我孫子の楚人冠邸

 楚人冠が我孫子を知ったのは、明治44年(1911)39歳の時、手賀沼東部(布瀬村、現在の柏市)で盛んに行なわれていた鴨猟の取材がきっかけでした。

最初は我孫子を別荘としていた楚人冠でしたが、関東大震災をきっかけに、我孫子に移住をする決意を固めました。家を建て引越しをするまでの「ごたごた」を、楚人冠は随筆『湖畔吟』に書いてくれています。

②手賀沼と楚人冠

 楚人冠が我孫子の景色の中で一等愛したのは、やはり手賀沼でした。

 洪水対策や耕地拡大のため、楚人冠存命中2度の干拓計画が持ち上がった手賀沼。その計画に異を唱え、広大な手賀沼を守ったのは、楚人冠だったのです。

③ゴルフを嗜む

 楚人冠はゴルフが大好きでした。昭和2年(1927)、55歳の時にゴルフを知ってから、楚人冠はゴルフにのめり込みました。

   

 楚人冠のゴルフ好きはとどまるところを知らず、我孫子ゴルフ場(現在の我孫子ゴルフ倶楽部)や柏ゴルフ場(現存せず、現豊四季台団地)といったゴルフ場の建設にも関わるほどでした。

④楚人冠の愛用品

 ジャーナリストとして必要不可欠であった万年筆やインク、楚人冠のトレードマークでもある眼鏡など…楚人冠の愛用品を一挙ご紹介。

 ぜひ、愛用品を使用する楚人冠を想像しながらご覧ください。

日時
6月30日(日)まで開催中 9時から16時30分(入館は16時まで)毎週月曜日休館
入館料
一般300円・高校・大学生200円・中学生以下無料
場所
我孫子市緑2-5-5
入館料
一般300円・高校・大学生200円・中学生以下無料
アクセス
我孫子市緑2-5-5
    ・JR常磐線・成田線我孫子駅 南口下車徒歩9分
    ・阪東バス 緑一丁目またはアビスタ前下車徒歩5分
駐車場

【杉村楚人冠とは】

 

 杉村楚人冠(本名・広太郎)は、明治末期から昭和前期の東京朝日新聞で活躍したジャーナリストです。日本で初めて新聞社に調査部や記事審査部を設け、新聞の縮刷版を企画、発行するなど、先進的な新聞人でした。
 一方で、独特の皮肉とユーモアにあふれた文章は人気を博し、まだ現役の文筆家として活躍しているうちから全12巻の予定で全集が刊行され、さらに増刊されて18巻にも及ぶほどでした。
 楚人冠は関東大震災で二人の子どもを失ったのを機に一家で我孫子に転居しました。以後、我孫子ゴルフ倶楽部の建設を町長に進言したり、手賀沼の干拓に反対し景観保護活動に取り組むなど、風光明媚な郊外の住宅地、観光地としての我孫子の発展に尽力しました。 一方、主宰した俳句結社「湖畔吟社」をはじめ、我孫子の人々と親しく交わり、慕われました。