奈良時代の初期、行基によって創建されたという結縁寺。その昔は、広大な寺域に六坊を有する大寺だった。しかし、天正の頃(1573-1590)焼失し、その後衰退していったと伝えられている。寺名は、平安時代の天慶年間(938-946)に入った真言宗の僧が、春秋二度の「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」という仏縁を結ばせる儀式を行ったことに由来すると言われている。現在も地名となっており、明治22年の合併までは、結縁寺村と呼ばれていた。この本堂に安置されているのが国の重要文化財に指定(大正3年)されている銅造不動明王立像。右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持ち、両目を強く見開き上下の牙で唇をかみしめ、力強く立つ姿は、像高47㎝の小像ながら、不動明王特有の怒りが感じられる。裳に刻まれた銘から、鎌倉時代後期に造像されたことがわかる。国指定の文化財の不動明王の中で銅像は貴重なものだ。土地の人からは「お不動さん」と呼ばれ、毎年9月28日に御開帳される。

  新・印西八景に指定されている結縁寺は、夏にはハスとスイレン、秋には彼岸花が楽しめ、周辺には熊野神社、頼政塚、十九夜塔などがある。

場所
印西市結縁寺516

頼政塚

    

 この頼政とは保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱で功のあった源頼政のことである。治承4年(1180年)4月、台頭する兵士を打倒するために挙兵したが失敗し、1180年5月26日、宇治平等院内で自害したといわれている。この頼政の首を埋葬した場所として伝えられているのが、結縁寺の東南300mの山林にある頼政塚だ。

頼政は、死に際して家臣に「吾が首を持ち東国に向かっていけ。吾が止まらんと欲する処へ行かば、首が重くなって動かなくなろう。そこに塚を築いて首を葬れ」と遺言したとされており、家臣たちは、東国へ向かい急に首が重くなり歩けなくなったところがこのあたりだと伝えられている。

場所
結縁寺東南300m